「アクセサリー」がそのうち季語になりそうだ
4℃をディスる話題が定期的に出るたびに、指輪に関する幸せな出来事をたくさん思い出すので、今後も是非続けていって欲しい。
— らくからちゃ@スゴいコシフリスト (@lacucaracha) 2020年12月23日
一昨年くらいからか、SNSことにTwitterで
「クリスマスプレゼントのアクセサリーが◯◯(ここにブランド名が入る)で云々」
といった呟き、個人的には多分に煽り要素のある呟きが目に留まるようになったように思う。
この手の呟きに対して、どんな反応をしても結局は自慢・マウントの類にしかならないだろう。
「わたしも◯◯を貰った(or贈った)けど嬉しかったし大切な思い出です」←幸せ自慢しやがって
「若いときにもらいましたよ(贈りましたよ)」←若い時のリア充自慢しやがって
「貰ったものにケチをつけるのはけしからん」←いい子ぶりやがって
「わたしは▲▲(◯◯よりバイブランド)です」←自慢しやがって
といった感じにいくらでもツッコミが入りそうである。
マラソンの話で思ったことと共通するが、結婚や子育て・恋愛のネタってのは結局のところ自分の選択に不安を持っていて、その裏返しで「わたしの選択が一番」と思いたい方が多いのだろう。
結婚式とフルマラソン - 職場のマーライオン
だからこそ自分と異なることを選択した人を心の底では認めたくないのではないだろうか、と穿った見方をしてしまう。
ひとたび他の人の選択を認めたら自分の選択が間違ってた、評価が低いとされてしまうような思い込みがあるんじゃないかなとふと思った。
「私は関係ないものね」と言わんばかりにこんな冷めたことを書いている私も正直なところを言うと、若い頃「プレゼントでアクセサリー(だいたい指輪の類)貰っている人羨ましい」「その手のプレゼントが貰えない(そんな相手がいない)私は負け組」と思い込んで勝手に惨めになっていた。
強がっていても結局のところ「こんなんじゃ普通の人生送れない」と不安になっていたのだろう。
この手の思い込みで10代半ばからかなり長い間自分を勝手に苦しめていたなと大いに反省している。大袈裟な言い方だろうが、他に考えること、やることが無かったのかと当時の自分を小一時間以上問い詰めたい気持ちである。
歳をとるとともに鈍感になったのと、いろいろ呑気でいられなくなるようなことが多くなってきた辺りから、家族でも友人でもましてや仕事の同僚ですらないよく分からない人の言う「世間の普通」をいちいち気にする余裕がなくなった。私にとってはこれは幸いだったんだろうな。